聖フランシスコ・サレジオは1567年8月21日、サボイアのトレンス城で生まれました。サボイアはその頃フランスから独立していましたが、プロテスタントであるカルバン派のドイツと国境を接していたため、サボイア公爵領はカルバン派とカトリックとの間に起こった戦争で分裂していきました。領地は絶え間なく続く宗教戦争で分断されたのですが、それは戦いの結果というより、身内で起こった不和によるようなものでした。聖フランシスコ・サレジオは自分の身のまわりで何が起こっているのか意識し始めるや、戦争の空気の中で息をしていくこととなりました。
両親ともに敬虔なローマカトリック信者で、知性と美貌に恵まれたフランシスコは可愛がられ、賢く育てられました。フランシスコの父は彼をパリに留学させることにしました。1578年から1588年までフランシスコはパリに滞在していましたが、その間、頭の中は予定説に関する疑問で占められことになります。それは救いの御業において、神の御恵みと人間の自由がどのように相互に協調することの、神秘なのです。 聖フランシスコ・サレジオは自身に問いました。私は選ばれた者なのか、それとも呪われた者なのか。精神の不確かさと心中の苦悩がフランシスコの健康をむしばみ、彼は絶望の淵へ追い込まれました。
ある日フランシスコは、パリの聖エティエンヌ教会の絶えざる御助けの聖母像の前で、聖ベルナルドの祈り「いつくしみ深い乙女マリア、ご保護に寄りすがって御助けを求め、あなたの御取り次ぎを願う者が、かつて誰ひとり棄てられた者のないことを思い出してください」を捧げていました。祈りを終えると同時にフランシスコは癒され、長く続いた苦悩からやっと解放されることができました。ご存じのように、神の御恵みと人に与えられた自由に関する問題は、カルバン派とカトリックを分ける基本的な問題点の一つなのです。
この危機から脱したあと、聖フランシスコは輝かしい成果とともにわが道を進み続けることになります。フランシスコの父は息子を長く赤いローブをまとう元老院にすることを望んでいました。1592年聖フランシスコがサールに戻ると、父は彼のために邸宅を購入し、法律に関する書籍を集めて素晴らしい書斎を造りました。そして、美しい女性との婚約の手はずも整えました。フランシスコはサボイアの元老院に受け入れられ、元老院議員の候補にも選ばれました。しかし、フランシスコがこの好機を拒否したことで、父は激怒しました。フランシスコはここで、自分が司祭になるつもりであることをはっきり告げるべきだと悟りました。そして、ついに父も折れました。
1593年12月18日、フランシスコはアネシーの大聖堂で叙階され、クリスマスのすぐ後、主任司祭に任命されました。
1594年、サボイア公爵の命で司教は聖フランシスコをカルバン派が優勢なシャブレーに派遣しました。その目的は、この地域でのカトリック信仰の勢いを取り戻すことでした。聖フランシスコは4年の間、教会の再建に熱心に取り組みましたが、あらゆる面で危機に見舞われることになります。悪天候に見舞われ、野生動物にも出くわします(オオカミや金で雇われた刺客から逃れるため、夜じゅう木の上で過ごしたこともありました)。しかし聖フランシスコは、一人見捨てられても喜びを感じることができました。ただ神のご意志に守られているのだと分かったからです。
1599年、司教の提言で、教皇クレメント8世はフランシスコを補佐司教に任命しました。1602年、司教はフランシスコをパリに送り、プロテスタント勢力下にあったシャブレーのカトリック教区を取り戻すため、ヘンリー4世との交渉に当たらせました。パリでは、信仰に沿った生活を送るために精神面でのあり方を模索する、熱心な信者グループを紹介されました。ここでの滞在中、アヴィラのテレジアの神秘的霊性は、イグナチオ・ロヨラの霊性同様、フランシスコに深い感動を与え、「信心生活の入門」や「親愛論」など、彼の著書に影響を与えました。
サボイアに戻る途中、聖フランシスコはグラニール教区司教の死を知ります。そして聖イグナチオのように黙想することで12月8日の奉献式に備えました。この奉献式の間、彼の心の中で熱い思いがこみ上げ、これから仕えることとなる人々に神が自分を完全に引き渡されたのだと感じることができたと、フランシスコはその数年後に書いています。教区会議の後、フランシスコは生涯をかけることとなる聖職者の採用教育方法の改革に着手し、知識と教養にあふれる献身的な司祭を育成することに努めました。また、修道院や聖職者間で行われていた職権乱用の排除に取り組み続けました。そして、教区内にある450もの小教区すべてを訪ねて、慈善行為に関する掟を確立することにも心血を注ぎました。
1617年、「神愛論」が出版されました。真の霊的成長とは、幻影を見ることでも狂喜することでもなく、神の一員となり、神のご意志を行い、積極的に慈愛をもって生活することができるよう、日々新たに願うことであると、聖フランシスコは確信したのです。
1622年の10月、フランス南部でフランス・カルバン派の反乱に勝利したルイ13世を祝うため、フランシスコはサボイア公爵からアビニョンに行くよう命じられました。健康はあまりすぐれませんでしたが、冷たい風の中ローヌ川を船で下り、11月15日アビニョンに到着しました。再び冬のローヌ川を航行し、11月19日にはリヨンを取り戻しました。クリスマスの2日後、聖フランシスコは従者に視力が落ちているようだと打ち明けました。二人で聖母マリア御訪問修道会の教会におもむき、司祭から赦しの秘跡を受け、そのまましばらく祈りの時を持ったあと、ミサを執り行いました。次の日の夕刻、フランシスコは亡くなり、その教会の人々による連祷が捧げられました。このようにフランシスコの地上での生活は終わりましたが、彼が授けた霊的精神は決して消えて無くなることはありません。彼の信仰の霊性、心の平静さ、楽観主義、活力に満ちた慈愛を受けて多くの人が教会に身を捧げることとなりました。中でも最も優秀で卓越していたのが、サレジオ会の創始者である聖ヨハネ・ボスコ(ドン・ボスコ)です。
皆さん、全幅の信頼を寄せて、聖フランシスコ・サレジオが絶えず私たちを永遠の救いに導いてくださるよう、祈りを捧げましょう。