宣教活動について
至高なる大祭司であり王であるキリスト宣教会の使命は、 キリストの統治をローマカトリック教会の千年至福の宝庫から人の生活全般に広めることで、 特に伝統的典礼、途切れることのない霊性、歴代教皇、聖人たちの聖伝、音楽、美術、建築物 における文化遺産などによって形成されています。
宣教会がこの使命を成し遂げられているのは、主として、カトリックの伝統に基づき、 司祭たちが広範囲に及びしっかり組織されているからで、それにはフィレンツェ大司教区の国際神学校が大きな役割を果たしています。
司祭たちは自分たちが聖別されていることを強く認識し、宣教会にまかされた教会や学校、 またアフリカの宣教地で教義を教え、黙想を勧め、霊的指導を行う使徒的仕事を通して、 神の御恵みの道具となるために奮闘しています。
王たるキリスト宣教会は汚れなき御心の庇護の下に運営され、奉献されています。
宣教会の霊性
至高なる大祭司であり王であるキリスト宣教会は、教皇直属の使徒的生活共同体で、 その存在意義は神の光栄であり、司祭も教会と人々の救霊の奉仕において聖化されています。 明白な目的は宣教です。主イエス・キリストの統治を人の生活と社会全般に広めることです。 私たちの仕事は、当宣教会が奉献している汚れなき御心の庇護の下でなされます。
カトリック教会は伝統的に、信仰、典礼、人の生き方、そして人の感覚を引き付ける 美の力などの間に存在する深い調和を認め、奨励してきました。 こういう理由で宣教会に不可欠な任務として、ミサ聖餐とその他の秘跡に、 福者ヨハネ二十三世によって公布された1962年版の伝統的ラテン語の典礼を使用してきました。
荘厳な典礼を大事にし、教会とローマ教皇の教義への忠誠、そして御恵み、 特に慈悲の中心的役割を認識すること、これらは宣教会の霊性に欠くことのできない要素で、 私たちの3人の保護者から受け継いだものです。 聖ベネディクトは、信仰、文化、典礼そして人の生き方、それらの結合の象徴です。 聖トマス・アクィナスは教会の教義と教皇の権威への忠節さの指針となる人物です。 聖フランシスコ・サレジオは物質的、精神的苦悩を抱える人たちに絶え間ない愛をそそぐ紳士的司教です。
聖フランシスコ・サレジオの霊性
私たちのモットーは聖パウロの 「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(エフェソ4:15) からとっています。これは私たちの保護者聖フランシスコ・サレジオの 「真実は慈愛を持って甘くなるまで調理しなさい」と響き合います。
これは私たちの仕事をするにあたっての行動規範です。 実りのない討論や、それよりも悪い無慈悲な論争は、 主に人々を引き付けるために何の役にも立ちません。 さらに聖フランシスコ・サレジオの言葉を引用すると 「酢の一樽よりも、蜜の一滴の方が人を引きつける。」 神聖なカトリック信仰における明白な真理は、 それ自体が深淵で聡明で論理的であるが故に人を引き付けるのです。 生活する上で結果的に避けられないものや、人の弱さや言い訳を切り裂くような鋭さを恐れる人たちに、慈悲という美しい衣装を身に着 けて現れれば、その真実は受け入れられるものとなるのです。
著名な宗教詩人であるガートルード・フォン・ルフォートは、 教会と明白な真理についてこう書いています。 「私はあなたのむき出しの剣のような信仰に落ちていき、 あなたは私の頼みの綱全てを切ってしまいました。」 神聖な信仰が、主ご自身が主の子供たちにいつも見せる恵みあふれるご慈悲と忍耐強い従順さで表されているなら、 人はもっと簡単にその偉大さと威厳を受け入れるのではないでしょうか。
至高なる大祭司であり王であるキリスト宣教会に属している者たちが、
聖フランシスコ・サレジオに倣おうと奮闘しているのは、
彼が当時最も知識豊かな神学者の一人であると同時に
「慈愛の博士」と呼ばれていたからです。 同時に「慈愛の博士」と呼ばれていたからです。
真実を伝えるという私たちの目標は、慈愛とともに、その偉大な戒律に沿って共同体の中で生活する中で、
日々自らの欠点に立ち向かい、御恵みの贈り物と絶えず共同作業することによってのみ成し遂げられます。
慈愛は日々の禁欲と置き換えることはできません。
それどころか、主キリストや隣人に対してあふれる慈愛の持ち主になりたい人は、
自分の意志を常に自制しなければなりません。
偉大な聖愛と使徒的な慈愛の師である聖フランシスコ・サレジオが
「最も禁欲の聖人」と当然のように呼ばれるのはこのためです。
教会の歴史と伝統の働き
教会の使命は、神聖な創始者から導かれ、 教会の使命は、聖なる創始者から導かれ、途切れることのない伝統の中で使徒たちと その正当な後継者から受け継がれてきた永遠の真実の教えを、歴史を通して伝え続けていくことです。 この途切れることのない伝統が、聖霊の導きのもと、私たちが「きのうも今日も、また永遠に変わることのない」 (ヘブライ13:8)イエス・キリストと一体であることを保証しているのです。
霊性の伝統
至高なる大祭司であり王であるキリスト宣教会は その確かな伝統とともに、これからも 絶えることなく存在し続けることを願っています。 宣教会の創始者たちは、ジェノバで故ジュゼッペ・シリ枢機卿の下で教会関係の勉学に励み、 ローマでは偉大なローマ学派を代表する 枢機卿や聖職者たちに仕え、 途切れることのない教会の伝統の流れに 浸される恵みを与えられました。
創始者たちは、カトリックの伝統は作り直す必要はなく、 ただ次へ手渡していけばよいことに気がつきました。 これが本当の意味での「生ける伝統」であり、 またtradidi vobis quod etaccepi- 「わたしがあなたがたに伝えたことは、 わたし自身、主から受けたものです。」(コリントI 11:23) とあるように、これが王たるキリスト宣教会の方式です。
音楽、芸術、建築物を通して神の栄光を讃える
カトリックは物事を具現化する宗教です。 言葉であるイエス・キリストは聖別された肉体を持って目に見える人間となられました。 キリストの神秘体である教会は、 キリストの具現化された救いの神秘を 世代を超えて目に見える形で保ち続けるために、 音楽、芸術、建築物など多様な伝統を用いています。 それら創造された宝は人の心と精神を 高めるだけではなく、神に尊敬の念を奉げるための視覚的、 触覚的方法として貢献しているのです。
霊性に満ちた建造物
地上で最大の神秘である神聖な 犠牲としてのミサが、確実に執り行われる環境を 整えるために、宣教会はこの伝統を頼みとしています。 ミサとは金では買えないダイヤモンドのようなもので、 その価値と輝きをそれ以上に見せるためには、 美しく威厳のある環境が必要であることを、 創始者のジル・ワッハ大司教は私たちに思い起こさせてくれるのです。
霊性に満ちた美術作品
目目には見えない永遠の神秘を、 典礼の美術的装飾などによって全ての人に見えるようにすることは、 教会が歴史を通していつも気にかけていたことです。 至高なる大祭司であり王であるキリスト宣教会は、それを続けています。
イエスの王の心を崇拝する王たるキリスト宣教修道女会のシスターたち
王たるキリスト宣教修道女会のシスターとは?
宣教会の仕事をサポートするために、 2001年神のご意志によって「至高なる大祭司であるイエス・キリストの王の心」に、 罪の償いと崇拝とに身を奉げて観想するシスターの一団を迎えることとなりました。 修道院から離れて観想の生活を送るこのシスターたちは、 宣教会の司祭や彼らを信頼する人々のために、日々祈りと犠牲を奉げています。
宣教会の司祭や助修士と同様、シスターたちは 聖フランシスコ・サレジオ、聖ベネディクト、そして聖トマス・アクィナスを霊性へと導く光であると固く信じています。 宣教会の主要な保護者である聖母マリア、その「汚れなき御心」の名の下に、 シスターたちは「マリアの聖なる御子の王の心」に自分たちの生き方とその存在全てを一致させようと努めています。 それで彼女たちのモットーはIn Corde Regis-「王の心の中に」です。
彼女たちの日々の生活の中心は祈りで、 伝統的ラテン形式のミサ聖祭と聖務日課が行われます。 1時間の黙想と夕方1時間の聖体への崇拝、ロザリオの祈りとその他の祈祷です。祈りの多い中で、 合間に体を使う仕事をし、グレゴリオ聖歌の指導やラテン語、霊性、哲学、神学、 教会教理や歴史などの知的教育を受け、裁縫、レース編みなどの手芸、祭服や祭壇上の布製品の手入れなどをします。
使徒職
半観想的で半行動的な共同体として、宣誓を終えたシスターたちは神のご意志に従って 公教要理を教えたり、宣教会所属の学校で指導したり、黙想会の参加者に部屋を用意したり、 また高位聖職者に必要な手助けをしたりします。目標とするところは物質的に良いものだけではありません。 むしろシスターたちは、崇拝するという生き方を周りの世界と分かち合えることを求めています。 ですから王であるキリストはどんな社会状況の中でも、全ての人の心の中で統治できるのです。
王たるキリスト宣教修道女会のシスターたちには、 司祭たち、特に王たるキリスト宣教会の司祭たちが聖別されるために祈るという特別な仕事があります。 そしてその宣教地で仕事を通して、何より神に捧げた生活を通じて、 司祭たちを支えているのです。